物はこれを生かす人に集まってくる

前回は、「実は、金銭はその人の努力に正比例し、欲心に反比例して集まってくる。財貨は、喜んで働く人に自然にめぐまれる。欲心(よく)のあるだけ差引される。」

という学びでした。
今日は、そのつづきです。

「大富豪は、実は無欲至誠の人でなければ行けない境地である。
世には、報酬を要求し、金銭を請求するのを賤しいい事のように思う人がある。
取るべき金を取り、請求すべき金銭を妥協なく要求することは、何らはずべきことではないばかりでなく、かえって、生活にはっきりと筋道を立てる所以(わけ)である。

 しかし人の働きは、金銭によってねうちをつけられるようなものではない。
又働きの時間や分量によって、いくらいくらと計算されるようなものでもない。

働く人の心 喜んでいるか、いやいやながら時間をつぶしているか、まことを傾けて一心に働いているか、千差万別である。

 これをはかりにかけて一々計算したならは、一律の報酬では不公平極まるものとなるであろう。これは一体どうなるであろうか。

一見不合理のようではあるが、長い目で見ていると、まことの働きによらずに得た金銭は、不時の入費の為に飛んでしまう。

あるいは又、金銭たのためにかえって苦しむということになる。

金がある為に不幸になるのである。
だから「金銭はその人の働きに応じて、自然に恵まれるもの」ということが、わが民族の総合体験であり、我等が会得した人倫の哲理である。」

一方、欲がなければ金銭にめぐまれぬという事も、一応考えられる事である。なるほど ごう欲な人は金をためる。しかし金の為に、その人は幸福になったか、苦しむことはなかったか。人からの恨みによって不幸に陥らなかったか。世にそうした不浄な金のために苦しむ実例は多い。

 ほんとうに身につく金銭を得る人は、無欲の人である。大事業家は、無欲の人である。事業は欲心(よく)で左右されるようなものではない。ただせずにおられず、仕事そのものがすでに無上の喜び、無限の恵みであって、歓喜にみちて働く、そこには事業はおのずから成功し、金銭は自然に集まるのである。

 二宮尊徳先生が、弟子に示した たらいの水の例話にように、欲心を起こして水を自分の方にかきよせると、向こうににげる。
人のためにと向こうにおしやれば、わが方にかえる。
金銭も、物質も、人の幸福も亦同じことである。

物はこれを愛する人によって生み出され、これを大切にする人のために働き、これを生かす人に集まってくる。すべて生きているからである。」

以上が、万物生々という学びでした。

物は愛する人によって生み出される。

物づくりの原点は、ここにありということでしょうか。

今日も一日、
明るく朗らかに、喜んで働きます。


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